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神の永遠の契約

石川和夫牧師

「わたしは、わたしとあなたたち、ならびにすべての生き物、

すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。

水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。」

(創世記 9章15節)

交通事故で妻と母と娘を一挙に失った方がいます。その方が「愛する人を失うとき」という本を出されました。

 ウイットワース大学の宗教学と哲学の教授で、シッツァーという方です。1950年生まれです。彼が40歳のときに、道路で酔っ払い運転車に正面衝突されて、家族3人を一度に失ったのです。大変深い悲しみと怒りに襲われるのですけれども、彼はその体験を纏めて本にされました。

 結びのところで、このように言っています。

 「破滅的な喪失に直面する人にとって、この上ない挑戦といえば、一方では喪失の暗闇に直面することであり、他方では新しい生命力と他者への感謝を持って生きることを学ぶことである。」(G・L・シッツァー「愛する人を失うとき」−暗闇からの生還ー、教文館、2002年6月15日、初版、236頁)

 愛する人を失うときに、私たちはどうしてもその悲しみの方に気をとられてしまいますが、もう一つの側面もあることを見失ってはなりません、ということを彼は言うのです。

決して滅ぼさない、という契約

 今日のテキストは、「ノアの箱舟物語」の結論部分であります。

従来、「ノアの箱舟物語」は、信仰深いノアの物語、箱舟が教会を示す、として語られてきました。今日では、旧約聖書学が深められた結果、ノアは、確かに信仰深いのですけれども、一方で、人類の代表をも示していることが明らかにされて来ました。それは、創世記の九章、十章に書かれています。

 ノアは人類の代表者として、神からの契約をいただきました。

洪水の後に言われました。

わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、

すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。

水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。

(創世記 9章15節)

 神様は世界を新しく造り直されました。そして、「決して、世界を滅ぼすことはない」と約束されました。それが、ノアに代表される新しい世界だというのです。

神が、すべての人を救うという、永遠の契約をしておられます。

そこで、一人の罪によってすべてのひとに有罪の判決が下されたように、

一人の正しい行為によって、

すべての人が義とされて命を得ることになったのです。

(ローマの信徒への手紙 5章18節)

イエス・キリストが十字架で死なれたことを通し、すべの人が義とされました。つまり、神様の前で無罪とされて、新しい命を得ることになりました。それは、常に、神様が私たちを省みて、新しく造り変えていてくださるということに他ならないと思います。すべての人を救うという、神様の永遠の契約が実現したのです。

両面を見よ!

 もう既に引退されたのですが、静岡の草深教会で、47年牧会された辻哲子牧師が「老いを迎えるに当たって」という説教の中で、このように言っておられます。

 この世の価値あるもの、地位、人間関係、栄誉(これに、さらに私が付け加えるとすれば愛する人)は、すべて過ぎ去る。しかし、そのことを分かっていながらも、しがみつき捨てきれずにいる私たちである。信仰者といえども、過ぎ去るものに執着しているのではないか。

 聖書(新共同訳)は「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることである」。口語訳聖書は「古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。しかし、すべてこれらの事は、神から出ている」とある。

 このことから、私たちは古いものに執着してはならない。古いものを整理していくようにこの世の価値観を捨てて、キリストによって新しくされたのであるから、新しい生活に向かっていくことをうながされている。(「希望の旅路」−聖書に聴く老いー、日本基督教団出版局、2001年11月22日、初版、102-103頁)

 過ぎ去るものに、目を留めるのではなく、新しくされていることにも、目を留めなければなりません。古い過ぎ去ったものは、順次整理してゆかなければなりません。今、与えられている、新しい道の中にある恵みを見つけて、生きなければならないと言っておられます。

 喪失には、悲しみと新しい祝福という二つの面があります。この二つの面に目を向けないと過去を引きずるしかなくなります。

 シッツァー教授は、家族三人を一度に失った、あの事故の三年後に、先ほど紹介した本を書いていらっしゃいます。

 「喪失は、私たちを小さくするが、また大きくもする。」(前掲書、236頁)

と言っています。愛するものを失ったということは、どのような意味があるのかということの詮索は、意味がないと思います。私をこうするために、愛する人が死んだのだ、身代わりになったのだとか解釈することで、納得できることではないのです。だからシッツァー教授はこのようにも言っています。

 私は、私がよりよいものに変わるとか、三人の健康な子供を育てるとか、本を書くとかのために私の家族のうちの三人を失ったのだ、とは決して思わない。私は今でも三人を返してほしいと思っているし、三人の死の結果として起こったことが何であれ、いつもそう思い続けている。(前掲書、234頁)

 決して帰ってはこないけれども、帰ってほしい。その気持ちは、やはりいつまでも消えない。どんな言葉をもってしても、これを埋めるということは決して出来ないのです。でも、彼はこのように続けるのです。

 しかし、私が感じる深い悲しみは、苦くもあり甘くもある。いまも、悲しみの感情を持っている。しかし毎朝、喜んで起きて新しい日がもたらすものを切に望んでいる。私はここ三年間で感じたほどの苦痛を今まで感じたことも無かったが、単純に生き普通の生活をする中で、ここ三年間で感じたほどの喜びもまた体験したことはなかった。こんなにも打ちひしがれたことはなかったが、全く打ちひしがれたままではなかった。私の弱さと傷つきやすさにいままでそんなに気づかなかったが、こんなにも安心していたのか、こんなにも強かったのかと感じたこともなかった。私の魂がこれほど死んでいたことはなかったが、私の魂がこんなにも生き生きしていることもなかった。私がかつて互いに相容れないと考えていたこと、たとえば悲しみと喜び、苦痛と歓喜、死と生がもっと大きな全体の一部分になっていた。私の魂が大きくされたのである。(前掲書、235頁)

 この道が、開かれているのです。悲しみと喜び、が同居するということ、これは普通では、考えられないのですけれども、イエス・キリストにおける神の恵み、そして、決して呪うことはなく、滅ぼすことはないという、神の永遠の契約が生きている限り、私たちは神に目を上げて、賛美を捧げ、祈りを通して、片方では悲しみと苦痛を追いつつも、片方で喜びと感謝を経験することが出来るでしょう。

唯一の神こそが

 シッツァー教授は、

 この三年間ほど人のやさしさを経験したことはなかった。いつも人は変わらなかったのに、自分はこんなにも人々から愛され、やさしくされていたのだということにも気づいた。

 と告白された後で、このように結んでいます。

 喪失は、私たちを造りかえる触媒として機能することができる。喪失は、私たちを神に導いてくれる。その唯一の神こそが、私たちに生命を与える意志と力をお持ちになっているのである。(前掲書、236頁)

 すべてのことに、両面があります。信仰者といえども、人間ですから、いつでもどちらかに揺れます。喜んだと思ったら、悲しみ、悲しみの中にありながら、また喜びに気がつきます。この揺り返しの中で、神が天に召されたものを最後まで愛し、同じように、私を愛し抜かれているという希望を持ち続けて、また日々、元気を出して歩んでいきたいと思います。それが、仏教的な言い方をすれば、天に召された人に対する供養になるのではないかと思うのです。

 祈りましょう。

 聖なる御神様。私たちは、最も価値あるものを、自分にとってかけがえのないものを失ったときに、取り返すことの出来ない程の大きな喪失感にとらわれて、立ち上がる気力すら失いがちであります。しかし、そのようなときにも、あなたは、私たちと共にいてくださいました。そして、また、悲しみの背後に、喜びをも備えていてくださいました。どうぞ、私たちが、このことを通してさらに積極的に人を愛していく歩みを続けていくことが出来ますように。悲しみを背負うときには、あなたが常に私たちと共にいて、強めてくださる恵みにいつも感謝を捧げることが出来るように、お助けください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。

 アーメン。

(2002年11月3日、降誕前第8主日、聖徒の日、第二礼拝説教より)