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風に吹かれて

 石川 和夫牧師

風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、

それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。

霊から生まれた者も皆そのとおりである。

(ヨハネによる福音書3:8)

 小塩トシ子さん、フェリス女学院大学の教授ですが、しばらく前に、「信徒の友」に連載されていた「こころにひびくことば」というエッセイを単行本として出版されました。その中に、八木重吉の詩を紹介した「風に鳴る琴」という題のエッセイがあります。

 「堀辰雄とほぼ時をおなじくして詩を書いた人に八木重吉がいる。幼子のように純粋な魂とことばで、神を呼ぶうたをおおく残した。 そのひとつに、こんなのがあります。

この明るさのなかへ

ひとつの素朴な琴をおけば

秋の美しさに耐えかねて

琴はしずかに鳴りいだすだろう

(小塩トシ子「こころにひびくことば」、日本基督教団出版局、1998年7月25日、初版、39,40頁)

 大変有名で、多くの人に愛されている詩ですが、わたしは、ここに登場する琴を勝手に和風の琴とばかり思い込んでいました。ところが、小塩さんは、こうおっしゃっています。

 「重吉はここで日本の琴をイメージしていたのだろうか。『素朴な琴』というのだから、わたしは『風琴』だろうと思う。風が吹くと鳴りだす琴、人の指がつまびくのではなくて、風が奏でる音楽とは、どんなものだろう。

 『風琴』といえばじっさいギリシャの昔からあって、それは木製の枠組みのなかにガット線をはった素朴な楽器で、縦型のものや水平型のものがあった。

 窓のところに置くと、風が吹いてきて静かに鳴りだす。ギリシャ神話の風神イオロスの名にちなんでイーオリアン・ハープと呼ばれ、ヨーロッパではとくにロマン派の詩人たちがよくうたっている。」(前掲書、40頁)

 風で鳴りだす琴。そうすると、重吉も風で鳴りだす琴を、神の息吹で鳴りだす自分と置き換えて受け止めていたのでしょうか。ギリシア語でもヘブライ語でも「風」という言葉は、「息吹き」をも意味し、それが「霊」とも訳されていました。神の深い恵みによって生かされていることを実に美しくうたったのが、先ほどの有名な詩でした。

聖霊は神の親心

 今日の福音書にも「風」が登場しています。

『あなたがたは新たに生まれねばならない』

とあなたがたに言ったことに、驚いてはならない。

風は思いのままに吹く。

あなたはその音を聞いても、

それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。

霊から生まれた者も皆そのとおりである。

(ヨハネによる福音書3章7,8節)

 分かったような、分からないような、そういう感じですね。どういうことなのでしょう?私は、ここで晴佐久昌英神父の三位一体論を思い起こしました。

 「父」は、いうまでもなく天地創造の全能の神さま、「子」とは、この神さまから生まれたキリスト、「聖霊」とは、「親から溢れくる親心」だというのです。

 この「親と子と親心」は分かちがたくひとつに交わっている。親がなければ子も親心もなく、子がなければ親は親でなく親心もなく、親心がなければ親と子は親子になり得ない。さらにいえば、親はもちろん親であるが、親心も親そのものであり、その親心に満たされた子も親そのものである。すなわち親が神なら子も親心も神であり、神は三者でありながらひとつだというのが「三位一体」の交わりの神秘である。(カトリック高幡教会発行、「あゆみ」晴佐久昌英神父送別号、27頁、「父と子と聖霊のみ名によって」)

 独り子であるイエスはこの親と子と親心、すなわち三位一体の交わりを実際に常に体験していたし、この交わりのうちに全ての人を招き入れようとして命を捧げた。弟子たちはこの神の独り子を信じて、自分たちも同じまことの親から生まれ、親心のうちに生きている神の子であることに目覚めていく。その目覚めは弟子たちなりの「父と子と聖霊」の体験であり、その体験こそがキリストの教会の原体験である。(前掲書、27頁)

 晴佐久神父によれば、自分もイエス・キリストと同じく神の子とされていたのだ、と気づくことが救いだ、というのです。そして、その気づきを助けてくださっているのが、親心なる「聖霊」なのです。イエスの言われる「新たに生まれる」ことは、実は、自分が神の子だったのだ、ということに気づくことなのです。ご本人の説明をお借りしましょう。

 もちろん、もとより全存在は神の子であり、その意味では本来的に救われている。(前掲書27頁)

すべての人は神の子

 すべての人はすでに神の子なのです。神がお造りになっているからです。その意味では、誰が救われる資格があり、誰には無い、なんてことは言えないことなのです。今日読まれた使徒書でも、パウロが「だれが天に上るか」とか「だれが底なしの淵に下るか」と言ってはならない、と言っています。(ローマ10・6、7)

 パウロは、このように言うことによって、明瞭に当時のユダヤ教を批判しています。律法を守っていなければ神の国には入れない、としていたのが、当時のユダヤ教でした。つまり、「神の子」には資格があるのです。キリスト教でもいつの間にか、洗礼を受けたものだけが神の国に入ることが出来る、と主張してきましたし、今もそのように主張しているキリスト教は少なくありません。

 人間と言うのは困ったもので、どうしても「善悪の知識」に従って、自分のしていることは正当化したくなります。たとえ悪くても自分のせいではない、と言いたくなります。禁じられていた「善悪の知識の木」の実を食べてしまったことをとがめられたときのアダムとエバの物語は、そのことを見事に表現しています。いわゆる「責任転嫁」をする。これは人間だけの得意技です。(創世記3章)だけど、イエス様がおいでになられたのは、われわれのそういった価値観を根底からひっくりかえすためでした。晴佐久神父は、こう続けています。

 しかしそれに気づかないことが、すなわち親を知らない子と闇と恐れこそが、あらゆる悪と苦悩の原因である。(前掲書27頁)

 「……ねばならない」で生きるときには、どうしても力が入ります。「よーし、やるぞ!」という感じで、力が入りますね。それで、うまくいったときには、傲慢になり、うまくいかなかったら落ち込む。誰かのせいにして……。だから、ここで肩から力を抜きましょう!あなたはすでに「神さまの子」として、この地上に生まれさせていただいているのです。そこに戻る、ということが「霊から生まれる」ということではないでしょうか。晴佐久神父の言葉を続けます。

新しく生まれる

 したがって、まことの親に気づいてその親心に目覚める時は、ある意味で神の子としての新しい誕生と言える。洗礼とはその誕生式であり、その式が「父と子と聖霊のみ名によって」授けられるのは当然のことと言えよう。(前掲書、27,28頁)

 パウロは、「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(コリントの信徒への手紙二5;17)と言っています。しかし、わたしたちは、まことの親に目覚めました、と言っても、日々の生活の中で、何かがあると肩に力が入って、そのことをしばしば忘れてしまいます。だから、主日礼拝に参加して、力を抜いて、もう一度生まれなおすのです。

 今朝、第一礼拝で次のような聖書の言葉が読まれました。

イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。

弟子たちは、これを見て叱った。

しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。

「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。

神の国はこのような者たちのものである。

はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、

決してそこに入ることはできない。」

(ルカによる福音書18;15〜17)

 この物語は、マルコ、マタイ各福音書にもあるのですが、そこでは、単に、「子供たちを」とあって、ルカによる福音書だけが、「乳飲み子までも連れて来た」となっています。これは、まことにルカらしい表現です。ルカは、人々から見捨てられたり、軽蔑されたりしている人たちに寄り添うイエスをよく描いています。ルカの降誕物語の主人公は、おとめマリアであり、差別されている女性や病人が主人公になった物語が多いのです。だから、ここでもただ「子供たち」ではなく、「乳飲み子までも」と言っているのがルカらしいのです。

 神の国は、乳飲み子のような者たちのものなのです。乳飲み子は、まさに力が入っていませんね。おなかがすいたり、お尻が汚れれば、わあわあ泣き、気持ちよければ、にこにこしています。どんな人を見ても分け隔てしません。乳飲み子は存在そのもので愛を伝えています。どんないかつい男でも乳飲み子の前では、「かわいいねえ」と顔をくしゃくしゃにして、その子を覗き込みます。

乳飲み子のように

 乳飲み子のように、そのまんまで、親の懐で、ゆだねきっている、その状態が、「神の国」なのです。そのようになることが「新しく生まれる」ということ、「霊によって生まれる」ということです。

風は思いのままに吹く。

あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。

霊から生まれた者も皆そのとおりである。

(ヨハネ3;8)

 そうです。私たちは、神さまについてすべてを知ることは出来ません。神さまが私をどのようになさろうとしておられるのかも分かりません。だけど、神さまは私を神の子としてお造りくださった。イエス様がそのことを教えてくださった。何もくよくよすることはないよ、そこで、あまり力みなさんな、と教えていてくださる。そのときに、神さまが私たちにどんなにすばらしいものを用意していてくださるかが分かります。

 八木重吉の詩に珍しく聖霊に触れた詩がありました。

父よ ふしぎなる 聖霊のちからよ

われにあるごとく 父にあるごとく

ふしぎなるちからよ われを

父につれゆくめぐみよ

わが魂のうちに芽ざしたる

ただひとつ 罪なき芽よ

 自分の魂の中に芽生えてきた罪なき芽。それは聖霊が私たちのうちに働いていてくださるとき、力が抜けて、そうなんだ、私は神の子なのだ、という意識にもう一度戻る。そういう意味で、キリスト者は、日々に生まれ変る者なのです。そうなんだ、乳飲み子に帰って委ねきる。ありのままで、それでいいのだ、という所に達すると、重吉は、さらに、こううたいます。

われ ちち とよぶ

われをよぶこえもあり

そのこえのふところよりながむれば

きりすとの奇蹟のやすやすと ありがたさ

 私が「お父さん」と呼ぶと、こちらの一方的な声だけではなく、「われをよぶこえもあり」、お父さんが、「おい、重吉」と呼んでくださっている声も聞こえる。「そのこえのふところよりながむれば」、私たちの生みの親の目から見ると、「きりすとの奇蹟のやすやすと ありがたさ」、キリストのなさることが全部当たり前、私たちに不思議があって、それが全部当たり前だ、という詩ですね。

父を呼び続けよう!

ただ よぶ ばかりなり、

いのることばさへしらざりしゆえ

ちのみごのははをよぼうごとく

おんちちうへさま

おんちちうへさま ととなへたれば、

ふしぎなり

もったいなし

おんちちはわれをみたま

(以下原稿破損)

 この後は、読む人によって読み込む言葉が違うようですが、私は「われをみたまへり」と読みます。「へり」とか、「ふていたり」だったのか、決定的には断定できませんが。いずれにしても彼が神の眼の中にいることは分かります。だから、信仰とは、呼ぶこと、乳飲み子のように父を呼び続けることなのです。重吉は、だから、赤ちゃんが泣いているのも神さまを呼んでいるのだ、私もあの赤ちゃんのように神さまを呼び続けたい、とうたうのですね。

 最近は、残念ですね。赤ちゃんが泣き止まない、というだけで腹を立てて殴りつけたり、放り出したりする親がいるそうです。さびしいことです。私たちは神さまの赤ちゃんとして生まれさせていただいているのです。いつも呼び続けましょう。

 祈りましょう。

 聖なる御神さま、今日もお招きくださってありがとうございました。あなたは、私たちをあなたの子として生まれさせてくださったのに、自分の持っている「善悪の知識」が災いして、たった一人ぼっちであるかのように錯覚したり、自分の力で何かをしてきたのだと思いがちでした。しかし、あなたがまことの親で、私たちの全てをご存知で、私たちに最もよいようにしてくださる方です。この週も、いつも私たちの内側に共にいてくださる聖霊がその原点に戻してくださいますよう、主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

 

(2004年6月13日 聖霊降臨節第3主日 第二礼拝説教要旨)