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自分は救えない

石川 和夫牧師

そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。

「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。

そして十字架から降りて来い。」

同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。

「他人を救ったのに、自分は救えない。

イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。

そうすれば、信じてやろう。

神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。

『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」

一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。

(マタイによる福音書27:39〜44)

 今日は受難週最初の日で、「棕櫚の主日」と言います。今日からの一週間は、全世界のキリスト教会が宗派、伝統など一切を超え、カトリック教会、ギリシャ正教、プロテスタントすべてを含めて、みな共通して、今日からの一週間を大事に守ります。聖金曜日と唱えられる今週の金曜日に、イエス様が十字架に架けられたということに関わるからです。

 また、イエス様の十字架の出来事なしに、キリスト教はありえなかったからです。棕櫚の主日というのは、イエス様がエルサレムにお入りになるときに、民衆が棕櫚の枝を振って、イエス様を迎えたという記事に基づいて、棕櫚の主日と呼ばれます。

 今日は、正面を見て、あれ!と思った方がいらっしゃるかもしれません。今まで、特別製の十字架がかかっていました。これは、一致礼拝のとき、姉妹教会であるカトリック高幡教会の方が持ってきて、貸してくださったものでした。一致礼拝は終わったのですが、高幡教会の方が持ち帰るのをお忘れになりました。

 それで、われわれが使わしていただきました。あわよくば、受難週もと、思っていましたが、そうはいきませんでした。先日引き取りに見えられました。それは、今日のミサで必要だったからです。その十字架は、三つの十字架が組み合わされたもので、手作りの十字架です。三つの教会の一致礼拝にふさわしいということで用いられたものです。高幡教会では今日、棕櫚の主日に、その十字架を先頭に立て、マーチをなさいます。

わたしたちもイエスをののしる?

 今日の福音書には、イエス様が十字架にお架かりになった様子が詳しく述べられています。

そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。

「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、

神の子なら、自分を救ってみろ。

そして十字架から降りて来い。」

(マタイ 27章 39節〜40節)

 同時に、当時の指導的宗教家たちが、イエス様を侮辱して

「他人は救ったのに、自分は救えない。」

イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。

そうすれば、信じてやろう。

(マタイ 27章 42節)

と、言いました。わたしは、この宗教家たちが、ののしったというところに、宗教の恐ろしさというか、難しさを感じます。キリスト教側が、キリストの伝記をえがいた映画などを見ると、キリストをののしった祭司長や人々を悪人に描いています。でも、本当は、祭司長は、当時の人々を真面目に指導する立派な人たちが大半だったのです。

 このことから、キリスト教も、一番肝心のイエス様をクリスチャンが、牧師が、十字架につけている場合が多かったのではないかということをしっかり読み取らなければいけないと思います。イエス様を十字架につけたのは、この、律法学者や祭司長たち、長老たちばかりではなく、わたしたちも入るのです。

「他人は救ったのに、自分は救えない」、

 今回はここに焦点を絞ってみたいのです。

順説と逆説

 本当の救い主、メシヤだったら、この人たちがののしったように自分で、えい!とばかりに十字架から飛び降りて、人々を、あっ!という間に救ってみせる奇跡の力があるのが本当ではないかと誰でも思います。

 これを、わたしは、順説の真理といいます。その反対が逆説の真理です。良いことは良いことだ、人間は良いことをしなければ駄目だ。信じることは良いことだ、誰でも当然のことと思います。

 しかし、良い事だけを追求していれば、その反対の悪いことは、自然に排除することになります。守らなければならない律法をしばしば破ったり、無視したりした上に、十戒の第一項に抵触する、最大の罪、「神の子」であることを否定しなかったイエス様だったのですから、この人たちがイエス様をののしったということはごく当たり前のことだったわけです。

 しかし、わたしたちもこのようなことを言いかねないか、または、しかねないということを覚えたいのです。目に見える事柄を良い、悪い、あるいは、正しいか、間違っているかを判断の基準にして判断しようとすると、この人たちと同じことをしているかも知れません。

  イエス様がお示しになった真理は、逆説です。イエス様は、しばしばおっしゃいました。得ようと思う者は、捨てなさい、偉くなろうと思う者は仕えなさい、と。つまり、本当の自由というのは、両面を持っているのです。良い面と悪い面と。だけど、順説ですと、良いというほうだけに心を奪われていて、悪いほうというのは、出来るだけ捨てていく。自分の中にも、当然、悪いものはあるのだけれど、普段は、あまり意識しません。

 いつも良いことだけに目を注ぐ、というようになります。だから、世の人は、クリスチャンが偽善者に見えるのです。わたし、良いことをしています、というのがぷんぷん匂うからです。しかし、イエス様はそうではなかったのです。良いことに徹底している人たちからみたら、イエス様をとても理解できなかっただろうと思います。規則は平気で破るし、何か、とてもチャランポランに見えます。

 だから、十字架のイエス様を見て、人を救うと言っておきながら、自分は救えないではないか、このようなインチキは無い、ということになります。イエス様を十字架につけた人たちは、本当に快哉を叫んだのです。自分たちは、悪の極みを滅ぼした。インチキの神を滅ぼしたのだ、そういう意識を持ったにちがいありません。

ザアカイだけを見つめたイエス

 イエス様は、他人は救ったのに自分は救えなかった、ということについて、スイスの神学者で、牧師でもあるシュバイツァーという人が、次のように述べています。

 ここで彼らは、イエスは彼が助けようとされたまさにその人たちのことのみを考えていたがゆえにこそ、自分自身を救おうとはされなかったということを、理解すべきであったのです。(E・シュヴァイツァー説教集「神は言葉の中に」(ヨルダン社、1980年5月25日、初版、137頁)

 イエス様は本当に、救おうとするもののことだけを考えられました。そして、自分のことは考えませんでした。わたしはこの文章を読んだときに、はっ!と思いついたのは、エリコの町のなかで一番悪い徴税人の頭ザアカイのことでした。背丈が低くて、イエス様が通るのが見えないので木に登ったら、その下を通るイエス様と目が合いました。その瞬間、イエス様は「急いで降りてきなさい、今日、あなたのところへ泊まりに来たのだよ」と言いました。ザアカイは嬉しくなって、イエス様に、「わたしの財産の半分を人に施しましょう。不正な取り立てをした人には、四倍にして返しましょう。」と言いました。どうして、彼がそのような気持ちになったのでしょうか。わたしは、そのヒントが、そのことの書かれているルカによる福音書19章の中にあると思います。

これを見た人たちは皆つぶやいた。

「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」

(ルカ 19章 7節)

 その当時の常識から言えば、一番いけないことをイエス様は自分から進んでやりました。わたしなら、とてもその言葉は出てこないと思います。なぜならば、イエス様は、エリコ中の人々を捨てているからです。あんなインチキな者はいないよという悪口が当然出ます。だけど、イエス様は、そのことも意に介しませんでした。それほどまでに、ザアカイに集中したのです。ザアカイだけを思いました。これが、他人は救ったが自分は救わなかったということなのです。

 わたしの想像では、その後、イエス様の裁判が行われたときに、人々がイエスを十字架につけろと叫んだと書いてあるのですが、おそらく、エリコの町の人が駆けつけて叫んだのではないかと思います。はっきりと、目の前で、イエス様がすることを見たのですから。貧しい者の友、病人を癒す、それがとても大事なことなのに、エリコにきたイエス様は自分が飲み食いしたくて、あの、一番悪いザアカイのところに自分から進んで行ったと見えたからです。わたしもエリコにいたら、同じように、叫んだに違いないと思います。

 しかし、イエス様はそのときに、ザアカイのことしか考えていませんでした。エリコのことがどうなるか、エリコの人たちが自分のことをどう思うかは、一切考えなくて、ザアカイのことしか頭にありませんでした。この、愛がわたしたちを救うのです。神の愛は、わたしだけに向かうのです。体当たりでぶつかってきます。だから、あの頑ななザアカイがまったく変わったのです。

 大げさに言えば、地球上の他の人を犠牲にしてまで、神が私たちを愛してくださっている、ということなのです。

神様が好いていてくださる!

 モルトマンという人がそのことについて、このように言っています。

 簡単に言うと、神はわたしたちのことで苦しまれる(Gott leidet an uns)、なぜなら神はわたしたちが好きだからです(denn er mag uns leiden)。語呂合わせどころではありません。この言葉の中に非常に多くのことが秘められています。つまり、神はわたしたちを好きなのです。またわたしたちは、ほんとうに神に好かれているのです。(J・モルトマン「新しいライフスタイル」(新教新書248、新教出版社、1996年8月31日、第1刷、29頁)

 この苦しむということは、英語で、パッション、ドイツ語で、ライデンと言います。パッション、ライデンには、同時に、情熱という意味もあります。ですから、苦しまれるのは、情熱のしからしめるところ、つまり、お前が大好きだというそのパッションが苦しみを負われたということです。その苦しみを負われた方が、わたしを愛してくださっている。だから、もう、どんなことも恐れることはないのです。

 モルトマン博士は、他のところでもこのように言います。

 人間が希望を失うところ、無力になって、もはや何一つすることができなくなるところ、そこで、そこでこそ、試練にあい、ひとり見捨てられたキリストは、そういう人びとを待っておられ、御自身の情熱(ライデンシャフト)にあずからせてくださるのです。

 人間が、希望を見捨て、幻想を追いかけるところ、その将来や最も大切なものを力でねじ曲げるところ、そこに、祈りつつ叫び、神のみ心を勝ちとるキリストが彼らを待っておられ、御自身の苦難(ライデン)にあずからせてくださるのです。(ユルゲン・モルトマン説教集「無力の力強さ」(新教出版社、1998年4月26日、初版、193頁)

 ここで、パッション、ライデンという言葉が使われています。イエス様が苦しむ、パッションされたのは、わたしたちをどうしても自由にしたい。愛しているから、その情熱と苦難の両方が裏表にあります。それが、自分は救わなかったということではないか、と思います。

 今週、受難週を過ごします。わたしたちはそれほどまでに、神に愛され、神に好かれ、そしてキリストがわたしたちを、しっかり、いいよ、と受け止めてくださいます。そのことを確かめ、また、感謝して歩みましょう。

 お祈りしましょう。

主 イエスキリストの父なる神様。イエス様が、他人を救っておきながら、自分は救えないとののしられて、しかも、最高の苦痛を耐え忍ばれた、その結果が、復活でございました。イエス様のあの苦しみは、復活が、当然、結果として報いられるものであったと思わないではおられません。そのキリストが、わたしたちをしっかりと受け止め、愛してくださっています。わたしたちが捉えられている。その喜びをしっかり受け止め、また、今週も苦しみを担っていてくださる、キリストと共に歩んで行くことが出来るように、お助け下さい。

 主イエスキリストの御名によって祈ります。 アーメン。

(2005年3月20日復活前第一主日の礼拝説教)